空き家に金魚

猫ブログじゃないです

ぴんとこないこと

 企業さんの説明会に行くと、だいたい「女性の働きやすい環境」とか、「女性としてのキャリア」とかいう言葉が出てきたり、質問の際に女学生が女性社員の割合や、産休・育休の取得率について質問したりしているのを見かけます。また、企業さんも女学生に対して、女性社員に直接「女性が働くのに」「いい会社」なのかどうか、といったことを訊いておかなくていいのか、質問を促したりする場面にも遭遇しました。
 そういうシステムがしっかりしている、また、女性が働きやすい環境であるということを聞くと、先進的で素敵な企業だな、と感じると共に「同い年くらいの女の子が子供を産むことを考えている」かも知れないという状況に驚かされます。
 周囲にも、結婚した人や子供のいる人が徐々に出てきたので、不思議ではないといえば不思議ではないのですが、私はいまいちピンとこないんですよね。

 そもそも、私に(多分)生殖能力が備わってるということが不思議でなりません。
 
 生まれてこのかた、自分の性別認識は女ですが、自分にメスとしての機能があるということには、いまいち納得できないんですよね……。

 私はあまり、恋愛というものが得意でないんですが、それもこの部分に関わってくるのかなぁなどと思ったりもしています。
 恋愛が得意でないと言うと、ただモテないだけ、理想が高いだけみたいに聞こえますが、どちらかというとモテる方ですし、相手も野球部じゃなくて(ごめんなさい)、平均的な体型から大きくズレてなくて、あとは笑顔が可愛ければいいかな〜くらいに思ってるんですが、どうにも相手から好意を向けられた時点で嫌な気分になってくるんですよね……。
 おそらく、相手から自分がメスだと認識されている(と私が感じている)のがいけないんでしょう。
 普段、友人として付き合うぶんには私のことを人間として認識してくれて、その思想や人間としての質に共感してくれたであろう人が、いざ恋愛だとなるとそこに「こいつはメスである」という実に動物的な欲求が付随するようで、どうにも嫌悪感が拭えないんです……。
 実際問題、男性がどういうつもりで私に好意を抱いて下さったかは知りませんが、少なくとも私にとっては恋愛感情を抱かれるということは、人間としての価値の否定のように感じるんですよね。なので、「仲のいい男友達のA君は、実は空けるちゃんに気があるのではないか」などと言われると腹が立って仕方ないです。
 本当は、恋愛=繁殖=人間性の否定では無いはずなんですがね……。

 同じような話が、私の大好きな漫画家である吉野朔実先生の作品「少年は荒野をめざす」でも扱われています。主人公の狩野都が、親友である菅野に告白され、ひどい裏切りだと感じて逃げるシーンです。狩野はさらさらのロングヘアの美少女ですが、自分の意志で生理を止めてしまうような人ですので、親友から自分が女の子だ、メスだと認識されていることはショックだったわけです。けれども、菅野だって吉野朔実作品の登場人物ですからね、逃げる狩野にこう言うわけです。
「狩野が女の子だからって好きになったわけじゃないよ。でも、狩野が男だったら、仲良くなれたかは分からない。だから狩野が女の子で良かったと思ってるよ」
 なかなか凄い。結局、狩野と菅野はずっと友達のままですが、狩野も徐々に自分が女の子だということを認められるようになっていきます。

 私も、誰か信頼する友人に、「女の子でよかった」と言ってもらえたら自分のメスとしての機能を認められるんでしょうかね。うーん……。

 同じく、吉野朔実先生の作品である「恋愛的瞬間」の冒頭では主人公の治田がこんな事を語るシーンもあります。
「運命の恋人を待っている。そこには自分の人格も、相手の人格もいらない。ケダモノになりたい」
 治田は恋愛をするためには人間性はいらないと考えているわけです。

 どちらのキャラクターも、恋愛と人間性というものは共存できないという考え方なんですが、実にこれが共感できる。そんなの間違ってる!と仰る方も多いでしょうが、とりあえず今の私には、「ヒト科のメスである私」を人間として好きだと言ってくれる「親友」か、わたしが人間であることを捨ててもいいと思えるような「ヒト科メスの私」が反応できる「絶対的オス」の登場を待つ以外に手段が無いように思えます。

 うーん、そんな人いるのかなぁ……。